MINOTAURE(ミノトール)
MINOTAURE(ミノトール)

ハードカバー: 大型本
出版社: SKIRA&RIZZOLI
    Klett-Cotta, Stgt. (1992)
言語: 英語
「アルベール・スキラ」といっても、知らない人が多いと思います。

わたしたち(画家やデザイナー)が若い頃、本屋さんの書棚には「美術書」が少なく(日本の出版事情のせいか)、洋書(画集や雑誌)から学ぶことが普通でした。美大図書館に加えて、古書店に足を運ぶ回数も次第に増えていったことを、懐かしく思い出します。
その洋書(画集)の中にスキラ社のロゴ(SKIRA)がついた本があり、わたしはすぐに魅了されました。
シルヴァン書房(京都)で、友人の長谷川さん(画家)に「このシリーズいいよ」と、それが1934年創刊スキラ社の「Les Trésors de laPeinture francaise」でした。

アルベール・スキラが起業した出版社には、「芸術を美術館から図書館へ」というスローガンがありました。写真、複製、インク、特製の紙、印刷、製本に至るまで細やかな配慮が施され、すべてにクオリティの高さが追求されていました。しかも、ここから出版される美術書はフルカラー(当時は少ない)でした。

河出書房から出版された普及版の画集(正方形に近い)は、スキラ社の画集をモデルにしていると言われます。1973年に亡くなってから、すべての版権が大手出版社(アメリカ)に移り、日本でも美術関係の本が充実するにつれ、次第に忘れられていくことになります。
アルベール・スキラが、最初に企画・編集した本「ピカソが描いた銅版画30点を収めたオヴィッドのメタモルフォーシス」は、美術書の歴史において特別な本になりました。若いアルベール・スキラと50歳のピカソの情熱が結実した美しい本でした。

その一年後の1932年には、アンリ・マティスのオリジナル銅版画29点を収録したマラルメの「poesies」を出しています。
さらに1933年に、「芸術誌ミノトール」が発行され、シュールレアリストの雑誌が誕生した。ブルトンとエリュアールは、ピカソ、マティス、ブラック、ドゥラン、ローランス、ブランクーシ等の作品だけでなく、ラカンの初期の著作、黒人芸術に関するミシェル・レリスの考察、そしてマン・レイとブラッサイの写真も出版した。

アルベール・スキラが果たした役割は大きく、世界の芸術の「意識変革」を加速させたといってもいいぐらいです。
若いアルベール・スキラには、編集者としての野心がありました。芸術雑誌『ミノトール(MINOTAURE)』の編纂にかける彼の情熱やこだわりは細部にわたり、尋常ではありませんでした。
芸術雑誌「ミノトール」は、1933年5月25日に発刊され39年までに13冊が刊行されました。この13冊の美しい美術雑誌「ミノトール」は、手に入れることの難しさや著名画家の版画が挿入されていることもあり、現在は『幻の美術雑誌』と言われています。

アルベール・スキラは、既にオヴィディウスの『変身譯』やマラルメの詩集、ロートレアモンの『マルドロールの歌』を刊行していて、ピカソやマチス、ダリなどと共同作業(挿絵)をしています。創刊号の表紙は、同時期にミノトールを主題に多くの作品を残したピカソに依嘱されていますし、ダリやマグリットなどシュルレアリストたちも次第に表現活動をこの雑誌に求め、実質的にシュルレアリスムの雑誌として機能し始めます。
36年の第9号でテリアードが同誌を離れてからは、A・ブルトン、M・デュシャン、P・エリュアールが共同編集人として雑誌の刊行を続けることになります。


ブラッサイが遺した書籍・写真・メモから、この時代の雰囲気が詳細に読み取れます。
わたしが、卓越した企画力と編集能力をアルベール・スキラに注視したのも、これらの資料が発端でした。
パリという街(異端の文化人が集まっていた街)が果たした役割も大きいのですが、ピカソの隣に住居を構え、銅版画・石版画などの道具を揃え(工房を設置)、画家だけでなく詩人を含めた文化人たちの交流の場を積極的に提供してきた、アルベール・スキラのキーマンとしての能力を高く評価したい。


文・中川 輝光